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シングーの探検史・概要


シングー河は、アマゾン流域の探検史上、そして開拓史上、もっとも踏査が遅れた巨大支流だった。その理由は、地勢の項で記した下流部の激流地帯にある。ここの激流は、船の航行がまったく不可能である。現在、この急峻部で発電ダムの計画が進んでいる。このベロ・モンチ・ダムについては、その背景とか現在の進行状況など、私のブログで紹介している。

ベロ・モンチ・ダムについて

 商業的な価値があれば、アマゾン奥地でも探検家的な商人たちが果敢に侵入した時代があった。シングー河流域には、ブラジルナッツや天然ゴム樹が豊富で、魅力がなかったという訳ではない。しかし、集めた産物が水路で運べなければ、遡行は完全な愚行だった。そんな要因があって、シングー流域は、十九世紀始めころまで、まったく未知の蛮境として残された。内陸には、たいへん多くの戦闘的なインディオが、西洋文明と接触することなく住んでいた。

 1842年に、当時のプロイセン(現在ロシア、ポーランド領になったドイツ王国)の王子アダルベルトが、シングー河の下流から支流イリリ川付近まで遡った。
 1884年、ドイツ人の人類学者カール・フォン・デン・ステイネンが、始めて流域の本格的な探索を行った。ステイネンは、マット・グロッソ地方から入り、一帯のインディオの生活や風習などを民俗学的に調査しながら源流に進んだ。彼が下った上流部の支流に、フォン・デン・ステイネン川という地名が残されている。

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ステイネンのスケッチ

1896年、フランス人の測量士のヘンリ・コーデローは、時のパラ州知事の依頼で、下流から5ヶ月の遡行調査を行った。最終地点は、アダルベルトよりずっと上流部、カラジャ族の領域のペドラ・セッカの滝だった。この探検の様子は、『シングーの旅』と題され上梓されているが、邦訳本はない。コーデローは、支流のイリリ河辺りまで、少数のセリンゲイロ(天然ゴム採集人)たちが入っているが、頻繁に未開インディオたちに虐殺されていることを記している。彼は、測量の専門家だったが、付近の博物もいろいろと記録した。特に古代インディオが刻んだ岩絵は、スケッチもあって、なかなか興味深い。
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コーデローが上梓した「シングー河の旅」(ポルトガル語)

1925年、エル・ドラド(伝説の黄金郷)を発見するために探検に入ったイギリス軍人のフォーセット大佐は、このシングー河の源流地帯で消息を絶った。
二十世紀後半に入り、「インディオ開放の父」と呼ばれるカンジド・ロンドン将軍、そしてセルタニスタ(森を知る者)のヴィラス・ボアス兄弟らの尽力で、次々に未接触部族が文明に取り込まれていった。
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晩年のオルランド・ヴィラス・ボアス
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